
信州ホルモン酒場「ご炎や」、「酒房食海」のオーナー、株式会社川澄の大将こと「加藤孝次」。食海を2001年に開いて以来、あまり語らなかった過去を聞いた。
1970年、愛知県豊田市で4人兄弟の四男として生まれる。実家は豊田市では初めての中華料理屋「川澄屋」を経営。大繁盛店だった為、幼少期は家族に相手にされず、かなりわがままに育ってきた。
加藤は中学卒業後、高校へは進学せず、「日本料理」の道へと足を踏み出した。
日本料理の道はやはり非常に厳しく、加藤はこう語る。
「日本料理の世界はとくに厳しいねぇ。包丁の”みね”で叩かれるは、高下駄で”すね”を蹴られるは。今の時代それをしたらすぐ辞めてまうわね。本当に丁稚奉公。この言葉は使わねぇわね。がははは。」
そんな加藤にも同期に九州からの集団就職組が同期だった。
この同期達の行為は15才の少年加藤にはかなりショッキングだったようで、
「15才。オレと同じ歳だよ。びっくりだよ。ねえっ15才よ!
オレ、自分になんだこの甘えた生活はと本当に思い知らされたわ。
だって、年に1度しか実家に帰りませんだって。電車賃がもったいないからだって。
こんな言葉いえないよ。15才だよ。親に会いたいと思うのにさぁ、…思いだしたらさぁ泣けてきちゃうよ。まったく!」
しかし、加藤はあるとき事件を起こす。先輩とのいざこざが原因だったと語るが、その原因は些細なものだったに違いない。結果、加藤はこの現場から脱落し、仕事を辞めてしまった。
実家に戻った加藤だが、あるとき父親から仕事先を紹介されたそうだ。頭を下げ見つけてくれたと聞かされ、申し訳ない想いがいっぱいだったという。その場所こそ大阪の有名老舗料亭。
5年ほどその店で修行した。前の職場にも負けないほど厳しい環境だったようだが、この頃から加藤に変化が見え始める。
ふり返れば最も苦しい期間だったそうだが、こうした経験が今の加藤をつくりあげ、「酒房食海」「信州ホルモン酒場ご炎や」に活かされているそうだ。
それから20年ほど経ったある日のこと。味付けなどを任せられる立場になった加藤は、仕事にも慣れ、後輩も何人かできるという有頂天な日々を過ごしていた。
年配の夫婦が「美味しかったよ」と加藤に向かって声かけし帰ってったのだが、残されたカウンターの上に喜びの気持ちを書き留めた手紙が置いてあったそうだ。「素晴らしい料理人になりますよ」と。
当時天狗だったとふり返る加藤は、この出来事で自分自身の中途半端な気持ちが恥ずかしくなったという。同時にこの時、「この仕事を生涯やり遂げる」と決断させた。
もっと多くの人に喜んでもらうため、一層の勉強に励み、一流のもてなし、一流の技術、人をもてなすための心の余裕を、職人の厳しい縦社会の中で学んだ。この頃の加藤は
「他人よりももっと多くの経験を重ねんとだめだがね。毎日、朝から夜中まで仕込みと清掃の繰り返しよ」
とふり返る。
中学を卒業した加藤の知識の源は主に書店だったそうだ。食文化理論、衛生法規、栄養学、食品学、公衆衛生学、食品衛生学、調理理論の書籍を求め、独学で学んだ末にプロとしての資格「調理師免許」また「河豚(ふぐ)の調理師免許」を取得した。
そして2001年に念願だった自分の店「酒房食海」を開店させ、2011年に「ご炎や」を開店させるに至った。
「日本料理は店の雰囲気も合わせて食べるもの。器も、小物も、演出も全て合わせてはじめて成立する。それをオレは料亭の現場で学んだンよ。だから食海は料亭の流れをもう少し柔らかくした場所にしたいと思って作った。とにかく、お客さんの笑顔が見られるのが一番の報酬だよ!」
酒房食海は、来店客から「食海に来ると、ほっとする」と言われるまでに育ち、おなじみさんになる来店客も多い。結婚記念日、誕生日会などのとき貸し切りで使ってもらったり、「二人の一生に一度の思い出に」と、若いカップルが結婚式の二次会の場所に選ぶこともしばしば。
「ご炎や」は今まで培ってきた食海での経験から、本当に美味しい肉料理を食べてもらおうという想いで立ち上げた新規店。食海開店の10年目に新しい事へのチャレンジと、加藤の料理に対する基本理念「美味い料理を食べれば、笑顔になる。笑顔が一番のご褒美だ」を肉料理という形で実践する店になりそうだ。
